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2009/06/19(金)
『臓器移植法改正案が衆院を通過』
ここ数日、メディアで取り上げられている「臓器移植法改正案」について。
従来「心臓死=人の死、脳死≠人の死」と考えられてきたものを、「心臓死、脳死=人の死」として考えて、臓器移植のハードルを下げようとする法改正です。
死の概念を変えるという意味で、大きな改正であろうと思います。

麻生総理、鳩山民主代表は反対票を投じていましたね。安倍元総理は棄権したと報じられていたように思います。

居眠りしたり談笑したりする国会議員の姿がニュースですっぱ抜かれています。よくメディアで報じられている「臓器移植を必要とする子どもたちの姿」を思い返しながら、、、


あなた方のお孫さんが、もし脳死状態だったら?
あなた方のお孫さんが、もし臓器移植を必要とする状況だったら?



あなたたちは、寝ていられますか?笑っていられますか?
結局は他人事ですか?自分には関係ないという気持ちですか?

(自分の懐を増やすような議案でなければ、つまらないですか?)

そんな気持ちになってしまいます。国民の代表であるなら、国民の痛みを我が痛みと思って参加していただきたいものです。

新しい話題のように「脳死は人の死か?」というテーマが取り上げれていますね。でも、決して新しいテーマではないのです。なぜならば、自分がまだ大学生だったころ。ゼミ発表では、ずいぶんそういう議論をやったものです。当時は臓器移植という視点ではなくて、「安楽死、尊厳死」という視点でしたね。お金もないのに興味だけはあって、その当時は「脳死の捉え方」に関係する書籍を買い込んだものです。自宅においてあるので具体的に何を買ったのかはすぐには出てこないですが、梅原猛の書籍なんかは数冊あったはずです。

学生だった当時は

(1)「生物学的には生存するための機能は働いているが、社会的存在としての生としては疑問だ」という主張
(2)「どのような状態であったとしても、存在していることだけでも十分意味があるはずだ。家族は命の輝きを感じている」という主張

がぶつかりあっていましたね。ゼミ教員も議論に結論を出すのではなく、議論の中で学生それぞれの価値観をもてばいい…という感じだったように記憶しています。ただ、その先生が「その主張はここがおかしいんじゃないか?」と言うたびに、自分の議論が二転三転していましたが。。。(汗)
学生のうちは、客観的な考えよりも感情論ずいぶん飛び交っていましたね。若い証拠です。


臓器を提供する側と臓器の提供を受ける側では、同じ当事者でも「脳死」の捉え方はずいぶん違う(むしろ真逆?)でしょうし、医療従事者と社会科学系では論調や視点もかなり違うのかなと思います。公人的立場ではまだ自分の価値観が固まっていない部分もあります。

ですが、私人的立場でいえば、今回の改正案の流れには賛成ですね。自分や自分に近しい人たちが脳死になったとしたなら、臓器移植に肯定的な立場になると思います。


今日はいつも以上に書きなぐった感があります。それは自分の揺らぎなのだと受け止めていただければ幸いです。いろんな考えがあるでしょうから、コメントなりトラックバック等でご意見ちょうだいできれば嬉しく思います。
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横山じゅんいち
講義の様子は、mabo先生のブログで拝見しました。
すばらしい講義だったようですね。学生にとってよい学びの機会だったと思います。
先生方の準備や連携にも多くの時間を使われたことでしょう。いい形で総括してください。
楽しみにしています。
2009/07/15(水) 01:10:14 | URL | [ 編集]
新城大谷のSIENTA
教授法についてのアドバイスありがとうございます。横山先生の言われるように、4~5回の授業構成にすると、学生も余裕を持って下調べが出来ますね。2番の対決方式の議論が面白そうですね。ディベートっていうのかな?以前読んだ看護の先行研究で、身体拘束についてのディベートの研究があり、学生の集中力や理解力が高まったという結果が出てました。また、チャレンジしてみたいと思います。9日に「おくりびと」映画鑑賞会を行い、昨日の授業で2年生の感想をKJ法でまとめました。2年生は少し前にI先生からKJ法についての授業を受けていたので、「この前やった~!」と興味を持って取り組んでくれました。1つの意味を付箋に書くだけなので、文章力の無い学生も10枚くらい書けました。内容も、浅いものから深いものまでさまざまで、興味深かったです。次は1年生に実施し、まとめて授業の資料と研究材料にします。介護福祉学会で発表の予定です。
2009/07/11(土) 08:39:10 | URL | [ 編集]
横山じゅんいち
コメントありがとうございます。
死を体感することができたら一番いいのでしょうが、それは不可能なので…。
(1) 学生個人がもっている「死」や「別離」の体験を共有。友人やペット、恩師、家族等いろんな体験があるはず。演習形式なら一番だと思いますが、講義形式でも講義の感想という形で書いてもらえますよね。
(2) 演習なら、全く異なる死生観の意見を教材にして、「Aタイプの死生観に賛成する立場になって、Bタイプの死生観を議論で打ち負かしてください」と対決方式のグループディスカッションさせてみますね。そして、立場を変えて同じことをやってみます。
(3) そうすると、両方の死生観に対する共感と反発、両者の意見どちらにも賛成と反対(メリット&デメリット)の考えが頭に浮かぶと思うので、改めて自分ならどう考えるか。について再度考えをまとめさせるなり、議論するなりしてみる

1回の講義や演習では時間が足りないと思います。少なくとも3回、時間かければ4~5回くらいの講義時間をとってやれるといいですね。
教員になった最初の年に、実習巡回指導で担当した学生さんからこんなことを言われました。今思えば、どうやったら今の学生の立場で物事を考えることができるかを考えさせられた出来事でした。

「実習中に仲良くなった利用者さんが亡くなってしまった。悲しくて何も考えられない。死ぬことを高齢者や他の生きている人がどう考えるかなんて、わかりっこない。私はまだ高齢者じゃないし、死んだことがないんだから」

ものすごく混乱した学生さんに、当時の自分は何も言えずにただ気休めの言葉しか言えなかったことがありました。学生にとっては現場は生きた教材ですが、教員にとっては、学生との関わりがひとつの教材ですね。
2009/07/06(月) 17:16:19 | URL | [ 編集]
新城大谷のSIENTA
こんにちは。横山先生のコメント拝見しました。勉強になります。臓器移植からは離れますが、介護福祉教育においても、死と限られた生について、介護福祉士という専門職としての死生観を育むような取り組みが必要だと思います。手始めに、今週「おくりびと」鑑賞会を企画してみました。実習前の1年生とⅡ段階実習が終わった2年生が、それぞれどんな感想を持つか楽しみです。レポート提出させ、死生に関する部分をコード化して、授業の資料に出来たらと思っています。それなりの感想文が書けるかどうかが不安ですが・・・ 個人的な死生観から、徐々に専門職として人の終末期に関わる時の心構えまで、現場に出る前に幾度となく死生について考える機会を与え、基礎作りをして行きたいと思います。横山先生の大学で、終末期についての教授法で工夫している点がありましたら、また教えてください。
2009/07/05(日) 09:34:20 | URL | [ 編集]
横山じゅんいち
コメントありがとうございます。
個々の死生観に善悪はないと思うので、いろんな意見があるなかでどういう路線を制度として進めていくのか。非常に難しい問題だと思います。国家が「死」の概念を規定すべきなのだろうか?という疑問も頭の一部にあるので。時代によって、あるいはそのときの文明や医療技術、倫理、社会情勢によっても異なった考え方が出てくるでしょうね。
SIENTAさんのように「自然の摂理に従って、与えられた生命を精一杯生きる」ことにウエイトを置く人もいるでしょうし、「他人からのサポート(臓器提供含む)を受けて、より長く生きる」ことを求める人もいると思います。移植を受ける権利を放棄するのは簡単ですが、「より長く生きたい」と思う人が生きる権利を具体化できない状況というのは、回避できればいいと思っています。

ただ、法律は性善説ではなく性悪説に基づいて作られている…そういう前提も一方ではあるので、臓器売買や人身売買につながるような悪用にならなければと願うばかりです。
2009/06/24(水) 11:18:05 | URL | [ 編集]
新城大谷のSIENTA
「臓器移植法改正案」について一言。医療は、「死」を敗北と捉えます。しかし、敗北という意味ではないにしろ、「無」になることは一概にいけないことではないと考えます。人間の感情が、時に善悪をも決めてしまうこともあると思いますが、人間誰しも持って生まれた宿命を背負い、自分らしく生きる権利と義務があると思います。健康であれ、障害者であれ、自分の心身には権利もあれば、自分自身で責任を果たす義務もあると思います。私は、法案自体については肯定も否定もありません。その時に法案を作成する人間の価値観や世論によって変わるものだと思うからです。しかし、自分がもし当事者であったなら… 私には3人の子どもがいますが、脳死状態であっても絶対に臓器提供はしません。どのような批判を受けようともです。逆に、子どもが何らかの障害を持ち、臓器提供を受ければ生きられるという状況であっても、たぶん拒否すると思います。他人から臓器提供を受けた方の、その後の生涯はほとんど紹介されませんね。生きながらえることが、善だとは言い切れないと私は思います。自然の摂理の前に、人間は謙虚であるべきだとも思うのです。何よりも、与えられた命を精一杯愛し抜いていくことが大切だと思います。
2009/06/21(日) 09:34:14 | URL | [ 編集]












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